2.持続的実質賃金アップの実現条件: 2.1物価指標の選定とデフレーターの動向 2.2 賃上げにもかかわらず実質賃金が下落するのはなぜか?2023年を事例に考える 2.3家計消費支出が経済を回す仕組みと着実な増加への条件 2.4 実質賃金アップに関するシミュレーション:ベースライン 2.5 設備投資拡大による経済活性化は実質賃金アップにつながるか?
前回の投稿では、現状のトレンドが継続する「ベースライン」において、3%の賃上げが実質賃金に与える影響を分析しました(注1) 。今回は、ベースラインの前提条件のうち「民間設備投資」に注目します。民間設備投資が活性化し、経済が上向いた場合、実質賃金の持続的上昇にはどのような影響があるのかを考察します。
シミュレーションの設定:「ケース1」(投資活性化シナリオ)
ベースラインでは民間設備投資の伸びを年率約0.7%弱と想定しましたが、これを年率3%まで引き上げた事例を「ケース1」と定義します。これは民間企業の投資意欲がより活発になった状態を指します。 この場合、2030年の実質の民間設備投資は、ベースラインの約95.8兆円に対し、約112.4兆円まで大幅に拡大します(表1参照)。
表1 「「ケース1」(投資活性化シナリオ)の想定

経済成長と雇用へのインパクト
シミュレーション結果(以下、表2参照)を見ると、ケース1では実質GDPが2030年に約627.5兆円(2023年比で約70兆円増)に達し、就業者数も約426万人増加します。
特筆すべきは経済成長率の差です。ベースラインが成長率1%を下回るのに対し、ケース1では1.7%台という相対的に高い成長率を達成します。しかし、この「経済の活性化」が必ずしも「実質賃金の劇的な向上」に直結しないという興味深い結果が出ています。
名目賃金はベースラインと同じく607万円(2030年)まで増加しますが、実質賃金の伸びは2023年比で28万円程度の増加に留まっています。この背景を「労働生産性」の観点から解き明かします。
表2「ケース1」のシミュレーション分析の主な結果


なぜ「景気」は良いのに「労働生産性」が鈍化するのか
これまでの投稿で、就業者数は資本ストックを労働装備率で除してもとまると述べてきました。ケース1では、労働装備率に変化はないが、民間設備投資の増加が資本ストックを増加させるため、就業者数の増加が顕著になります。
民間設備投資が3%で増加すれば、企業の新たな事業所(工場・オフィスビル・店舗など)の数がどんどん増え、資本ストックの蓄積がすすむことになります。企業が、新しいエリアに新規事業所を展開すれば、当然ながら、建物や機械・設備などの「資本ストック」が増えます。もし、その新規事業所が従来と同じ運営スタイルであれば、従業員一人あたりの資本ストックである「労働装備率」は変わりません。
労働装備率が一定ということは、新規事業所を動かすために「従来通りの人数」を配置しなければならないことを意味し、その分だけ新たな採用が必要になり、就業者数が増加します。新たな事業所がどんどん増え、それに連動して働く人も増えるというのは、日本経済の活性化がこれまでにない形で進むことを意味し、それが1.7%台の経済成長に反映されることになります。
しかしこれによって労働生産性の上昇が持続するかというとそうではありません。ベースラインの労働生産性上昇率をみると、2024年は0.63%と相対的に低い値ですが、2030年でも0.49%へとわずかな減少にとどまっています。
それに対して、ケース1の労働生産性上昇率は、1.28%(2024年)と比較的高いですが、その後逓減傾向を示し、2030年には、0.48%まで落ち込みます。2030年は、ベースラインより低くなっています。
なぜこのような状況になるかというと、ケース1の経済成長率は1.7%台で安定していますが、経済活性化により労働需要が活発化して、就業者数の増加率は逓増傾向を示すためです。経済成長率は安定的に推移し、就業者数増加率が逓増することが、労働生産性上昇率の低下に反映される結果になります。
労働生産性の鈍化が実質賃金を抑制する
労働生産性の伸びが鈍化すると、物価(GDPデフレーター)には上昇圧力がかかります。 ケース1では労働生産性の伸び悩みにより、GDPデフレーター上昇率が2024年の1.7%から2030年には2.51%へと加速します。名目賃金が同じ3%上昇であっても、物価上昇率が加速するため、差し引きの実質賃金上昇率は2024年の1.28%から2030年には0.48%まで低下してしまいます。
結論:投資の「中身」が問われる
シミュレーションが示す教訓は明確です。「従来型の設備投資」による経済活性化は、労働需要を増やして失業を減らし、経済規模を大きくするには有効ですが、それだけでは労働生産性の向上には結びつきません。
むしろ、人手不足に拍車をかけ、物価上昇を招くことで実質賃金の伸びを抑制してしまう側面があります。実質賃金を力強く引き上げていくためには、単なる規模の拡大ではなく、労働装備率を劇的に高める「技術革新を伴う投資」などの重要性が浮き彫りになりました。
(注1)「ベースライン」の主な前提条件をもう一度確認すると以下の通りです。
➀賃金は、2023年を起点として、2030年まで毎年3%上昇する。
②粗利潤率、政府の純間接税率、雇用者・就業者比率は2023年の実績値で推移。
③家計消費支出以外の需要項目は、1994年から2023年までの過去データの趨勢(トレンド)が2030年まで続く。
④労働装備率は、過去のトレンドが将来も続き、毎年0.2%前後増加する。


