第1部:理論編―循環のメカニズム 2.持続的実質賃金アップの実現条件 2.1物価指標の選定とデフレーターの動向 2.2 賃上げにもかかわらず実質賃金が下落するのはなぜか?2023年を事例に考える 2.3家計消費支出が経済を回す仕組みと着実な増加への条件 2.4 実質賃金アップに関するシミュレーション:ベースライン
2023年を起点として、2030年まで毎年3%の賃上げが継続した場合、果たして実質賃金はどの程度上昇するのでしょうか。また、国民生活を一層向上させるための実質賃金上昇はどこまで実現可能でしょうか。
今回の投稿では、日本の経済社会が現状のまま推移した場合、3%の賃上げでどの程度の実質賃金が見込まれるかをシミュレーションします。このケースは「ベースライン」ということができます。この結果をもとに次回以降の投稿で、「ベースライン」を上回る実質賃金上昇(さらなる国民生活向上)を実現するために必要な条件を深堀していきます。
2.4.1 シミュレーションの基本構造(数理モデルの再確認)
本分析は、これまでに解説してきた「数理モデル」にもとづいています。「数理モデル」のコアは、物価、実質GDP、就業者数それぞれの決定式にありました。
物価の決定:物価は、賃金、企業等の粗利潤率、政府の純間接税率、雇用者・就業者比率(=就業者数のうち雇用者数が占める割合)、労働生産性で決まります。これらの変数のうち、労働生産性以外は、外生変数です。労働生産性は、「実質GDP÷就業者数」で、実質GDPと就業者数がどのように決まるかによって変動します。
実質GDPの決定:家計消費支出(実質)は、賃金の動向に左右されるので、数理モデルの中で、内生変数になります。家計消費支出(実質)は平均消費性向と賃金動向を反映した家計可処分所得によって決まります。それ以外の需要項目は、外生的に決まります。
就業者数の決定:就業者数は、資本ストックを労働装備率(=資本ストック/就業者)で除してもとまり、労働装備率は技術進歩の程度を示しています。
2.4.2 データ値の想定:ベースラインのシナリオ
物価決定に関する想定:物価の指標は、基本的にGDPデフレーターを採用しています。GDPデフレーターの決定要因のうち、賃金は、2023年を起点として、2030年まで毎年3%上昇すると想定します。企業等の粗利潤率、政府の純間接税率、雇用者・就業者比率は2023年の実績値が2030年まで一定に推移すると想定します。
起点となる2023年の賃金は、493万円でした。毎年3%の賃上げが実現できるとすれば、2030年には、607万円まで増加します。2023年の粗利潤率、純間接税率、雇用者・就業者比率の実績値は、それぞれ、0.82、0.13、0.89であり、これらの数値が2030年まで続くと想定します(表1参照)。
表1 GDPデフレーターに影響を与える要因の想定値(ベースライン)

実質GDP決定に関する想定
投資・輸出入など家計消費支出以外の需要項目は、1994年から2023年までの過去データの趨勢(トレンド)が2030年まで継続すると想定し、外生的に与えます。主な需要項目別の2030年までの前年比増加率をみてみると、民間企業設備投資増加率は、0.6%~0.7%の間で推移しており、安定的ですが、増加率は小さく1%を切っています。公的固定資本形成の増加率も同様な傾向を示しており、0.67%~0.83%と低くなっています。民間住宅投資は毎年0.2%程度低下し、下落傾向が続くとしています。財貨・サービスの輸出増加率は2%強、輸入増加率は2%を切った形で推移し、輸出は順調に増加する傾向を示しています。政府最終消費支出の増加率は、1.3%以下にとどまっています。経済成長の源泉ともいうべき外生的な需要項目別の増加率は低く、これが将来も低成長が続くであろうという根拠になります(表2参照)。
表2 実質GDP決定に関する需要項目の想定値(ベースライン)

家計消費支出(実質)は、家計消費支出(名目)を家計消費支出デフレーターで除してもとまります。家計消費支出(名目)は、平均消費性向に家計可処分所得をかけたものですから、家計可処分所得の将来値がどうなるかがひとつのポイントになります。
SNA統計における家計可処分所得は、「営業余剰(持家)」、「混合所得」、「雇用者報酬」、「現物社会移転以外の社会給付」、「その他所得」を合計した「税引き前所得」から、「所得・富に課せられる経常税」と「純社会負担」を引いてもとまります。
営業余剰(持家)は粗利潤の一部ですから、営業余剰(持家)が粗利潤に占める割合を外生的に与え、それに粗利潤をかけてもとめます。粗利潤は、マークアップ原理にもとづき毎年決まる雇用コスト(=雇用者報酬)に粗利潤率をかけて、2030年までの数値がもとまるのはいうまでもありません。
混合所得は自営業者の所得ですので、1人当たり混合所得に自営業者数をかけてもとめます。1人当たり混合所得は、2023年を初期値として、2030年まで賃金同様毎年3%上昇すると想定します。
現物社会移転以外の社会給付は主に引退世代の年金給付額ですが、将来の年金給付額についてはこれまでの趨勢値がそのまま続くとして想定します。その他所得は2023年の数値で据置します。
所得・富に課せられる経常税は、税引き前所得に所得等税率をかけてもとめます。所得等税率は、2023年の実績値が2030年まで同じと想定しました。純社会負担は主に現役世代が納める社会保険料ですが、これも1994年から2023年までの過去の趨勢がそのまま続くとして、将来値を外生的与えます。
このようにしてもとまる家計可処分所得に平均消費性向をかけて、名目家計消費支出がもとまり、それを家計消費支出デフレーターでわって、実質の家計消費支出がもとまり、実質GDPの大きな部分を占めることになります。尚、家計消費支出デフレーターは、GDPデフレーターに連動する形で決まります。また、平均消費性向については、大きな消費行動の変化はないと想定して、2023年の数値をそのまま2030年まであてはめます(表3参照)。
表3 家計消費支出に関する想定(ベースライン)

就業者数決定に関する想定
就業者数は、資本ストックを労働装備率(=資本ストック/就業者数)で除してもとまります。資本ストックは生産活動に寄与するもので、前年の資本ストック(減価償却後)に今年の民間企業設備投資と公的固定資本形成の合計を足してもとまります。民間企業設備投資と公的固定資本形成は、前述したように、1994年から2023年までの過去データの趨勢(トレンド)が2030年まで継続すると想定した数値になっています。減価償却率は2023年の数値をそのまま採用します。労働装備率については、過去のトレンドが将来も続くと想定すると、毎年0.2%前後増加することになります。国民経済全体でみると、技術進歩はゆっくりですが、着実に実装化されることになります。
表4 就業者数決定に影響を与える労働装備率の想定値(ベースライン)

2.4.3 シミュレーション結果と考察
ベースラインの前提条件にもとづくシミュレーションの結果は、表4で示されます。実質GDPの前年比増加率は0.9%強で、経済成長率は1%以下となります。就業者数は前年比増加率が、約0.3%~約0.4%で推移しており、逓増傾向を示しています。就業者数が増加するのは、住宅以外の投資によって積み上がる「資本ストックの増加率」が、技術進歩の指標である「労働装備率の伸び」をわずかに上回るからです。
「資本ストックの増加率が労働装備率の伸びを上回る場合、なぜ就業者数が増加するのか、」という疑問について、簡単な事例をつかって補足説明します。
ある企業が、新しいエリアに「新規事業所(店舗)」を出店したとします。これにより、建物や厨房機器、レジなどの「資本ストック」が増えます。もし、その新店舗が従来と同じ運営スタイル(無人化やセルフ化が進んでいない状態)であれば、従業員一人あたりの設備量である「労働装備率」は変わりません。この状況は、資本ストックの増加率が労働装備率の伸びを上回っている事例に他なりません。
労働装備率が一定ということは、新店舗を動かすために「従来通りの人数」を配置しなければならないことを意味します。その結果、新しいお店の分だけ新たな採用が必要になり、就業者数が増加するのです。就業者数が増えているのは、新規事業が生まれる際、現場を劇的に効率化して人を浮かせる(=労働装備率を急上昇させる)ほどには、デジタル化や自動化が進んでいない現実を反映しています。つまり、「新しい場所には、依然として新しい人手が必要」という状況が続いているため、資本の蓄積に伴って就業者数も微増していくのです。
ベースラインの場合、就業者数は増加しますが、その増加率は実質GDPの増加率を下回るため、労働生産性が、0.5%弱~0.6%強の範囲で上昇しています。労働生産性向上がクッションになって、3%の賃上げにもかかわらず、GDPデフレーターや家計最終消費支出デフレーターの上昇率は3%未満に抑制され、結果として、実質賃金は年0.5%弱~0.6%強の範囲で上昇します。
ベースラインでは、将来の賃上げ上昇率が3%で持続した場合、経済成長率は1%に満たない低成長から抜け出すことはできないが、実質賃金の前年比増加率は0.5%程度を維持することができるので、国民生活向上の底上げは可能ということになります。したがって、低成長であっても、毎年3%の賃上げを実現するということは、国民生活防衛という面からみると、最低限必要ということになります。
しかし、経済成長率をもう少し高め、実質賃金を高め、生活向上が実感できるような状況を実現するためにはどうしたらいいのであろうか、という疑問が残ります。この問いに応えるため、次回の投稿では、設備投資をもっと増やす、技術進歩が進み労働装備率が高まる、労使の分配関係を調整する、という3つのケースをとりあげ、実質賃金のさらなる上昇が実現可能な最適な組み合わせを考察することにします。
表5 シミュレーションの主な結果(ベースライン)



