2.持続的実質賃金アップの実現条件 2.1物価指標の選定とデフレーターの動向 2.2 賃上げにもかかわらず実質賃金が下落するのはなぜか?2023年を事例に考える 2.3家計消費支出が経済を回す仕組みと着実な増加への条件 2.4 実質賃金アップに関するシミュレーション:ベースライン 2.5 設備投資拡大による経済活性化は実質賃金アップにつながるか? 2.6 AIを中心とする技術革新の加速は、実質賃金アップを実現するか?
前回の投稿記事では、2030年の日本経済が現状の延長線上で推移すると仮定した「ベースライン」に対し、民間設備投資がより活発化する「ケース1(投資活性化シナリオ)」を想定し、GDPや雇用、実質賃金などの主要マクロ経済指標に与える影響を考察しました。
ここで「ベースライン」の主な前提条件を再度確認します。
➀賃金は、2023年を起点として、2030年まで毎年3%上昇。
②粗利潤率、政府の純間接税率、雇用者・就業者比率は2023年の実績値で推移。
③家計消費支出以外の需要項目は、1994年~2023年の趨勢(トレンド)が継続。
④労働装備率は、過去のトレンドに基づき、毎年0.2%前後で微増。
「ケース1」は、前提条件の③に注目し、民間設備投資が毎年前年比3%増と、「ベースライン」を上回る成長を想定したシナリオでした。
技術革新の加速を想定した「ケース2」のシナリオ
今回の投稿記事では、前提条件④の「労働装備率」に着目します。技術革新の度合いを労働装備率で数値化し、AIを中心とした技術革新の加速が、実質賃金アップにどの程度寄与するのかを「ケース2」として考察します。
表1 「ケース2」(技術革新の加速で労働装備率がアップするケース)の想定

過去30年間、コンピュータやインターネットを用いた情報の処理、保存、通信などの情報技術(IT)の発展は目覚ましいものであり、産業や人々の生活に大きな影響を与えました。ITを中心と過去30年間の技術革新の程度が2030年まで継続すると想定したのが「ベースライン」です。
「ベースライン」では、労働装備率ついて、過去30年間(1994年~2023年)の趨勢を延長し、毎年0.16%~0.21%の範囲で着実に浸透すると想定しています。この想定は、AIなどの情報技術革新の成果が急速に出るというものではなく、着実に経済社会に普及していくことを意味します。
これに対して、「ケース2」はAIを中心とする技術革新が加速化し、多くの産業に普及し、その成果が現実化するという仮定です。「ケース2」は、2023年を起点として、2030年まで労働装備率が毎年1%上昇するという想定です(表1参照)。「ベースライン」と比較して、約5倍で高い数値になっています。情報技術革新の成果が急速に普及したとしても、この数値は高すぎるかもしれません。しかし、ここでは、技術革新の加速化によるマクロ経済へのインパクトを検証するために、あえて「ケース2」を考察したいと思います。。
シミュレーション結果:経済成長率と民間設備投資の質
表2「ケース2」のシミュレーション分析の主な結果


シミュレーション分析の結果をみると、実質GDPは、556兆7460億円(2023年)から2030年には595兆620億円と、約38兆円の増加になっています。「ベースライン」と「ケース2」の実質GDP成長率を比較すると、どちらも0.9%台であまり違いはありません。これは、民間設備投資が同水準であることに起因します(以下、表2参照)。
「ケース2」で企業は、投資の「量の拡大」ではなく「質の転換」を重視します。つまり、投資総額は「ベースライン」と同水準ながら、古くなった設備をAI等の最新技術を内包した設備へと置き換える「更新投資(置換投資)」が中心になるために、GDPの押し上げ効果は限定的になるのです。
雇用と労働生産性の劇的変化
「ケース2」の大きな特徴は、就業者数の推移にあります。就業者数が6855万人(2023年)から2030年には6649万人へと減少しています。「ベースライン」では前年比増加率が、約0.3%~約0.4%の増加傾向を示していますが、「ケース2」では、毎年0.4%強で減少するという対照的な結果になっています。
就業者数は、資本ストックを労働装備率で除してもとめています。「ベースライン」と比較すると、「ケース2」では設備投資は同額ですから、当然ながら、資本ストックも同じです。労働装備率を「ベースライン」より相当高く設定していますから、就業者数は減少することになります。これは、同じ資本ストック量であっても、AI等の「労働節約的技術」が体化された設備に更新されることで、より少ない人数での運営が可能になることを意味します。
結果として、「ベースライン」と実質GDP成長率が同等であっても、就業者数が減る分、労働生産性上昇率(1.34%~1.46%)は「ベースライン」を1%近く上回ることになります。
実質賃金への恩恵と残された課題
この労働生産性向上が、物価抑制に寄与します。2030年の家計消費支出デフレーター上昇率は、「ベースライン」の2.5%に対して、「ケース2」では1.63%に抑制されます。
名目賃金上昇率はともに3%ですが、物価安定がプラスに働き、2030年の実質賃金上昇率は、「ベースライン」が0.49%であるのに対して、「ケース2」では1.34%と大幅に上昇することがわかります。
「ケース2」は、設備投資拡大が「ベースライン」と同じテンポですから、実質GDP成長率は決して高くなく、また就業者数は減少するので、経済活性化が実現したとは言い難いところがあります。しかし、実質賃金上昇率は「ベースライン」よりも相当高く、生活向上を着実に実感できる状況になると思います。AIなどによる技術革新が加速化して、それが置換投資を通じて資本ストックに体化されれば、労働生産性の上昇を通じて相当の実質賃金上昇を実現する可能性があります。AIなどの労働節約的技術進歩は実質賃金上昇に寄与することが確認できます。
「ケース2」では就業者数が減少傾向を示しますがこれをどう評価するかが課題として残ります。15歳以上の働く意思と能力を持つ人々の合計である労働力人口が、少子高齢化社会の中でどのように変化するのかを見極める必要があります。もし労働力人口が減少傾向をとれば、失業問題は生じないと思われます。しかし、外国人労働者の受け入れや老後生活不安のため高齢者の労働市場参入が進めば、労働力人口が増加します。このような場合は、労働市場が超過供給になって、失業問題が発生する可能性があります。労働生産性上昇の恩恵を受ける労働者と失業にあえぐ労働者が共存する可能性があります。
AIの普及によって労働者の仕事の機会が奪われるのではないかという漠然とした不安があります。そのような不安を顕在化させないためには、技術進歩が経済に波及するプロセスを、慎重に検証していく必要があります。


